多文化鶴見の源流  

 
多様な生活世界が埋め込まれた街-鶴見。鶴見の歴史を紐解くと、現在の鶴見が多文化な街を形成するに至ったわけを知ることができます。

鶴見は、古くは漁村としての時代、その後の京浜電気鉄道の開通に伴う住宅地としての期待を込められ、平岡広高(※1)の児童遊園地「花月園」に代表される住宅地としての歴史、そして大正時代初期に浅野総一朗(※2)、白石元次郎らによる埋め立て事業が始まり京浜工業地帯の中核的な地域として開発され、仕事を求めて全国から集まった労働者の居住地としての歴史、そして、関東大震災をきっかけにした沖縄からの人々の集住や朝鮮からの人々の移住、商店街や盛り場や三業地(※3)が発展したという多様な歴史を歩んできました。

今鶴見には多様な外国籍住民が住んでいますが、現在の多文化鶴見を形成した土台には、鶴見のこうした歴史が埋め込まれてきたことにあります。言い換えれば鶴見は多様性を吸収する力、取り込む力をこうした歴史の中で確実に培ってきたということだと思います。これが現在の鶴見の多様性を支えている魅力です。
 
     

※1 新橋の料亭花月の経営者平岡広高は,妻とのヨーロッパ旅行の際,パリ郊外の児童本位につくられた遊園地に感銘を受ける。帰国後,鶴見の東福寺を訪れ,境内3万坪を借りて,大正3年(1914)児童遊園地「花月園」を開園した。  
※2

1848年4月13日‐現在の富山県氷見市に医師浅野泰順の次男として生まれる。24歳の時、お茶の水で裸一貫「水売り」から出発する。コークス、コールタールの廃物利用で儲け、浅野セメントの設立をきっかけに浅野造船所(後の日本鋼管、現JFE)など多数の会社を設立。一代で浅野財閥を築き、京浜工業地帯の発展に寄与する。「明治期のセメント王」と呼ばれる。京浜工業地帯の埋立地に鶴見臨港鉄道(鶴見線の前身)を設立し、浅野駅にその名を残す。

 
※3 三業とは、料亭、芸者置屋、待合の商売をいう。  

     
  多文化鶴見の現在  

 
1980年代後半以降、国境を越えて移動し、労働や「定住」生活をする人々に注目が集まり始めました。こうした人々は、自らの出身地(origin)と移住先の現住地(destination)とのあいだを結びつつ、あるときは外国人労働者とか出稼ぎ(Dekasegi)として様々な問題を抱えつつも日本社会の重要な市民として暮らし始めています。

鶴見でも、例えば沖縄出身の人たちが歴史的に作ってきたコミュニティ―リトル沖縄と呼ばれることもあります―が、日系の人たちの日本社会への新たな移動を支える拠点になるということが起きています。彼らは、昔、横浜港から南米のそれぞれの国々に移民をした人々の子孫であることが多く帰還移民と呼ばれることもあります。

国境を越えて移動し目的地に「定住」する人たちは、様々な生活施設―エスニック・レストラン、スーパーマーケット、ブティック、雑貨店、エスニック学校、生活情報誌や新聞などのメディア、旅行社、商社など―を作りだし、これらが国境を越える「移動」や「定住」を支え、情報ネットワークの「拠点」として、あるいは経済活動の拠点やそれぞれの文化的世界を作り出す一方で、多文化鶴見の活力・エネルギーを支えています。

もちろん様々な文化をもって日本社会に「定住」することは並大抵の努力ではなく、その過程でさまざまな問題を抱え、時に自治体や関係機関のサポートを必要とします。しかし同時に、新たな文化的世界の形成や、日本社会へのもう一段階ステップアップした参加や共生の仕方を探ることは、今後の日本社会の活力の源泉を探すことにも繋がります。鶴見の多文化共生も、今、新たな段階に向けていかにステップアップするかが問われています。
 
     

     
  行政の取り組みとボランティア団体の歩み  

 
鶴見区では、平成2年の入管法改正後、南米出身の住民が急増し、地域社会での共生が問題となりました。そこで平成3年に「鶴見区国際交流事業実行委員会」という団体を区に設立し、この問題に対応していくことになりました。まずは「言葉の壁」が切実な問題であることから、外国の方が気軽に学べる日本語教室を充実させることが当面の課題となりました。当時すでに、日本語教室を開催しているボランティアグループがありましたが、いわゆる「出稼ぎ」と呼ばれている方たちが、働きながら通える場が少なかったため、特に夜間の日本語教室の開設が目標となりました。

まずは日本語を教える人材育成のため「日本語ボランティア研修会」を実施、その後、平成4年に日本語教室を立ち上げました。最初は初級クラスだけだったこの日本語教室も、さらに中・上級の学習者に対応できるように発展していきましたが、そうした中で、教室を運営していたボランティアの方らが中心となって、行政および「実行委員会」から独立して、自らの手で日本語教室を運営していくことになりました。

市民によるボランティア日本語教室の充実という、当面の目的は達成されたわけですが、多文化共生社会の実現のためには、様々なテーマを持って活動を行っているボランティアグループのネットワークを作っていくことも地域にとって必要だと考えられるようなりました。そこで区内の様々なボランティアグループが一緒になって準備を進め、一つのイベントをつくりあげるという形で、平成8年から「琉球文化の集い」、「コリア文化の集い」、「中国文化の集い」、「ラテンアメリカのお祭り」という、各国・地域をテーマにしたイベントが開催されました。このイベントは後に「鶴見区国際交流まつり」という、より多くの文化に触れることができるイベントに発展しました。さらに「実行委員会」も、各ボランティアグループの代表で構成する「鶴見区国際交流事業推進委員会」に再編され、現在に至っています。
 
     
     
  鶴見国際交流ラウンジの開設  

 
平成22年12月、鶴見駅東口駅前の再開発地区内に建設された複合ビル「シークレイン」の2階に、鶴見国際交流ラウンジが開設されました。平成20年から「鶴見区国際交流事業推進委員会」で開設に向けた議論をしそれを踏まえて準備を進め、待ちにまったオープンとなりました。鶴見国際交流ラウンジは鶴見区に住む外国人の支援や多文化共生の拠点となる公共施設です。窓口では7言語で相談対応と情報提供を行うほか、日本語教室や外国につながる子どもたちの学習支援教室などのサポートや、異文化を理解し合う交流事業などを実施します。その他、ボランティアグループの活動を支援するため、研修室の貸し出しも行います。今後、国際交流ラウンジを中心に、鶴見区がさらに外国人の皆さんも日本人の皆さんも安心して活き活きと暮らせる街になるよう、具体的な取組を進めていきます。